百の善行のためなら、ひとつの微細な悪を犯していいのか

2010年3月10日

昨晩テレビ朝日の報道ステーションを聴いていたら、メインキャスターの古舘伊知郎氏がまたしても怖ろしい発言をしているではありませんか。

アメリカでのトヨタ車による一連の不祥事、あるいは見ようによってはトヨタバッシングとも思われる出来事の最中、古舘伊知郎氏やテリー伊藤氏などが報道番組内で、次のように発言しているのを度々耳にしました。

トヨタのこれまでの貢献度、また日本経済を支えてきた功績を
 鑑みれば、日本政府はトヨタ擁護に力を尽くすべきで、
 アメリカ政府に対して手を講じろ。」

というものです。

この発言、ぞっとするくらい怖ろしくないですか?

なぜでしょう?

この発言の根幹には、
社会への(経済的な)貢献度が高かったら、ミスや過ちは許すべきだ。
そうした考え方が潜んでいるように思われるからです。

国民の大半を満足させる食品を販売する会社なら、
  一人ぐらい食中毒で死なせてもいいのでしょうか?

国民の生活を豊かにする家電製品を提供する会社なら、
  一人ぐらい爆発や感電で死なせてもいいと言うのでしょうか?

いくらでも例えを列挙することが可能です。

少し思想的・文学的な話をすると、
フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーの「罪と罰」の
主人公ラスコーリニコフの思想を連想させられます。
ラスコーリニコフの思考の根源にはあるのは、
ひとつの微細な罪悪は百の善行に償われる」という発想です。

即ち、ドストエフスキーは
百の善行のためなら、ひとつの微細な悪を犯していいのか」ということを「罪と罰」の中で問うたのです。

普通に商売をされている方は、
間違っても「百の善行のためなら、ひとつの微細な悪を犯していい」とは考えないで欲しいものです。
マーケティング以前の、人間としての在り方の問題です。


報道は、普段はどんな微細な悪をも見逃さないというスタンスのはずなのに、どうしてトヨタ問題では、古館氏のように寛容なんでしょうね。
強いモノには媚びを売れ、あるいは “長いものには巻かれろ” 的な発想なんでしょうか。

アメリカがトヨタ車の急加速問題で、
明かに真実をねじ曲げ、日本車叩きをしているのならまだしも、
少なくとも急加速問題で実際に死者まで出ているわけです。
簡単にトヨタ擁護にまわれる状況では本来ないはず。

それにアメリカという国は、
熱いコーヒーでお客様に火傷させた店側に数億円の損害賠償を命じる国家です。(マクドナルド・コーヒー事件、1992年)
単に日本車叩きが目的だとは言い難いのではないでしょうか。

報道は、あるいは国家が仮に力を貸すとしても、
根拠もなくトヨタ車を擁護するのではなく、
(事故原因の真相という)真実の追求に力を傾けるのが
本当の在り方ではないでしょうか

見当外れな考え方をテレビを通して力説する
古舘伊知郎氏には呆れるしかなかったのですが、
それに対してコメンテーターの一色清氏が
真っ向反対を表明されていたことには、
ほんの少しだけ光明を見い出せたことを
最後に付け加えさせていただきます。

〔写真は19世紀ロシアの文豪ドストエフスキーの肖像画〕


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