映画「アバター」は現代のマス・マーケティングの象徴か?

2010年2月21日

あなたがもし映画「アバター」に何かしら映画作品としての高いクオリティを期待するなら、「アバター」は観ないほうがいいでしょう。
(ちょっと話題にするのが遅くなりまして、すみません。)

逆に3D映像や非日常な美しい映像を観たいなら、絶対にオススメできる娯楽(=アトラクション)だと思います。ただし、それだけです。

映像の至るところに3D用だけのためとしか思えない映像が満載。あまりに意味のない冗長なシーンが続いて、160分もの長さを見終えると疲労困憊します。

映画「アバター」の内容については、取るに足らないストーリーとしか言えません。観る人すべての予想通りに進みます。反面、よくよく考えるとストーリー展開の端々に論理的な無理があり、見終えると腑に落ちない印象が残ります。

映画を観はじてめてからすぐに惑星パンドラのナビィ族はインディアン(原住民)にしか見えなくなりました。

原住民を征服しようとする文明人が最後に、異なる部族の原住民の団結にあい、打ち負かされてしまうという展開。

しかし、そこには教訓もなければ登場人物の心の葛藤もないし、深い教えもない。

3D映画ということ以外、事前の情報を持たずに観た自分は、映画を観ながら、一体いつになったら(学者役の)シガニー・ウィーバーがナビィ相手にマシンガンをぶっ放すのかと思っていたくらいです。

ストーリーは基本、説得力を欠いています。なにやら得体の知れないパワーを持つらしい原住民に怖れを抱き、武力攻撃できなでいる人間が、アバターを作りスパイとしてを送る。その後スパイであるアバターがナビィの世界には神秘的な力があると報告しているにも関わらず、攻撃を始める人間。だったら最初から攻撃しろっていうお話し。

なぜ主人公ジェイクがナヴィの女性ネイティリに想いを抱くかのかもよく分からないし、攻撃しようとする軍隊とナヴィとの間で板挟みになり葛藤する主人公の姿もない。なぜ主人公ジェイクがナビィ側について、人間を殺戮する行動に出るかも説得力不足。

極めつけは、そもそも遺伝子操作でアバターを作るほどの技術があるのなら、あっという間に原住民を壊滅できるしょうっていう話。(それではストーリーが生まれないか。。。)

映画「タイタニック」から12年。12年経ってもジェームズ・キャメロン監督の表現手法自体はまったく進化なし。一人称視点と三人称視点(=神の視点)の混在。一人称視点を使って面倒くさい説明的ストーリーの部分を割愛するテクニックが目立ちます。

ふと、1982年に製作された「トロン」という映画を思い出します。ウォルトディズニー映画で、全編コンピューターグラフィックスで描いたことだけで当時話題になり、ヒット。内容はびっくりするくらいつまらない。

確かに様々なアミューズメントパークで、3D映像なんかを観ても、内容よりは3Dがスゴかったという印象しか残りません。

ただ3Dといういわゆる海賊版を作りにくい映画を生み出したという意味では映画界への貢献は大でしょうね。映画館での盗撮による海賊版の経済的な被害は甚大です。だから映画関係者は「アバター」を評価せざるをえない。

結局、映画「アバター」をひとことで言うと、薄っぺらな内容を、コテコテの演出と豪華な技術で塗りたくったような作品。こうした作品がウケるのが現代だとしたら、豪華な技術を生み出せるお金持ちな企業が成功を収めるのも納得がいくというものです。

マス・マーケティングが難しいとされる現代でもスゴイ技術力さえあれば、中身とは無関係に、まだまだ成功を収められるという、いい見本かもしれませんね。


映画の中では高い技術力をもつ(=高い技術力しかもたない)文明人は敗北しますが、高い技術力をもつ(=高い技術力しかもたない)ジェームズ・キャメロン監督は成功を収めます。なんだかそれが一番アイロニカルに見えたのは自分だけでしょうか。


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